星見ヶ島には、美しい海がある。
海岸によって色も違うのが特徴のひとつで、透き通るエメラルドグリーンもあれば、深い紺碧の場所もある。
インドア派の俺がすすんで海に入ることはないが、学生のころ体育の授業でヘロヘロになるまで走らされても、応援していたアイドルがグループを脱退してショックを受けても、情趣あふれる色彩の水平線の眺めると、たちまち癒された。
観光客のほとんども、この海を目当てに遠い本土から遊びに来ている。
イルカやクジラのウォッチング、釣り、ダイビングなど、大抵のレジャーはこの島でできる。
休日の朝、エプロンを着けて魚の干物を焼いていると、幼馴染みのミッチが訪ねてきた。
「美味しそうな匂い!」
踊るように俺の隣へ来ると、腕を掴んで胸を押しつけてくる。本人は自覚がないので、俺が気を遣うしかない。
「危ないぞ。俺いま、魚焼いてるんだから」
「グリルに任せて焼いているだけじゃん」
「甘く見るなっ。最高に旨く焼けた瞬間に火を止める大事な工程があるんだぞ」
「おおう、なんか朝から職人っぽいこと言ってる」
邪魔をしたら悪いと思ってくれたミッチが、俺から離れてくれた。
「で、一緒に食うか?」
「うん、食べるっ」
ミッチの腹が減ったら、俺がたくさんご馳走をする。それが最近の俺たちのルールだ。
「そんで食べ終わったら、海いこ、海っ」
「パス。気分が乗らない」
「なんで~っ、しんじ、いっつも断るじゃんっ」
「当たり前だろ。俺はミッチみたいにアウトドア派じゃないんだ」
ミッチが持つ二つ名、天然野性児でもない。
「あうとどあ派ってなに? そんな横文字使わないで、一緒にダイビングしようよ」
ダイビングも横文字なのだが、と突っ込もうとしたところで、ちょうど魚が焼けた。
グリルから魚を取り出すと、脂ののった魚がぷつぷつと音を立てている。実に旨そうだ。
「焼けたぞ」
「わーい、美味しそうっ。これ食べて海に潜り行こうねっ」
「疲れるから嫌だ」
「週末になる度に本土行くより疲れないよ」
それは俺のことを言っているのか。マネージャーになるまで、毎週のように本土のアイドルイベントに参加していたからな。
「とにかくいこ。バディいないんだよ」
バディとはその言葉通り相棒、つまり一緒に潜る人のことだ。
背負う重いタンクを扱うときに助け合ったり、潜っている間も空気の残量を確認し合えるなどのメリットがある、安全性においても欠かせない存在だ。一般的にはこれをバディシステムと呼ぶ。
そのバディがいないとなれば、付き合うしかない。スポーツダイビングでは鉄則だ。
まあ、ミッチに引っ張り回されるのは、いつものことだしな。
「しょうがない、ミッチになにかあると困るし、付き合うよ」
「ありがとう!MSD(マスタースクーバダイナー)も取れたし、潜りたくて仕方ないよぉ」
真夏の花のような笑みを浮かべるミッチは、いつにも増して嬉しそうだ。最近はなないろクリップの練習が忙しくて潜れる時間が少なかっただろうし、鬱積していたのかもしれない。
朝飯を食って、沖に行く。
乗船した船には俺たち以外に、初心者と思わしき女性グループがいた。
「鼻をつまんでも、つばを飲み込んでも、耳抜き上手くできないよ~」
グループの一人が不安そうに呟くが、周りの友人も初心者なのでアドバイスが出来ない。
耳抜きとは、潜ったとき耳にかかる水圧を解消することだ。
これをやっておかないと鼓膜に負荷がかかり、中耳炎などになってしまう。
「これ舐めるといいよ」
ミッチが女性に飴玉を差し出した。
「あごを動かしてつばを飲み込むの。耳管っていう細い管が広がりやすくなるんだよ」
「ありがとうございます、試してみますっ」
わらにも縋る思いで飴を受け取り、再度、耳抜きをしてみる女性。
「あっ、出来たわ!」
「これで楽しく潜れるねっ」
「本当にありがとうございます、助かりました!」
女性はミッチの手を取って感謝を伝えた。
へええ、やるじゃないか。
ミッチはなないろクリップの中でもとりわけ身体能力が高いので、ダンスの指南役をこなしている。だが、ここまで的確なアドバイスをしているのは見たことがない。これまで何度も、こういう経験をしたことがあるからなんだろうな。
俺のところに戻ってきたミッチは、ちょっと得意そうだった。
「偉かったな、ミッチ」
「これくらい、どうってことないよ。みんなに海を楽しんでもらいたいし」
そんなミッチを見て、普段感じている疑問をぶつけてみる。
「ミッチは、どうして海が好きなんだ?」
「自然と溶け合ってる感じがするからかな。人間も含めてね。深度20メートル位で自分の呼吸音しか聞こえない状態って好きなの」
わかるような、わからないような。なんか座禅を組んでいる坊さんみたいだ。
俺は星見ヶ島が好きだが、ミッチのように毎日自然と触れ合おうとは思わない。
自然は人の心に癒やしを与えてくれるが、常に危険も孕んでいる。事故や怪我を負って怖い思いをするくらいなら、家で過ごしていた方が安心だ。自然と触れ合わなくても楽しいことはある。アイドルを応援していた方が、よっぽど楽しいじゃないか。
「わたしたちも、そろそろ潜ろ?」
「あ、ああ」
ダイビングのポイントに着き、お互いのギアのチェックをしてBCDにエアーを少し入れ、バックロールでミッチを追う。ミッチは派手にジャイアントストライドエントリーで飛び込んだ。もうベテランの域だ。
ドロップオフの水中は鮮やかなブルーで、魚がサンゴを縫って泳ぐ姿が見えた。
ここはミナミの島なので、カラフルな熱帯魚が多く生息している。出会える魚の種類も、数十種類に及ぶ。運が良ければ、海カメが優雅に泳ぐ姿を見ることだって出来るのだ。
ミッチは必死に泳ぐ俺の姿を確認しながら、キラキラする水面の光で鱗が輝く熱帯魚と一緒に泳いでいた。
その姿は人魚のようで、本物の魚より見とれてしまう。
そんなミッチを見ていると、彼女の体が自然の一部になっているような錯覚を起こしそうになった。
自然と溶け合うとは、ああいう姿を指すのだろうか。
ミッチは俺のところへ戻ってくると、手をきゅっと掴んできた。
なにをするのかと思えば、仰向けになって、もう片方の手で水面を指さしている。
俺は余計な抵抗をせず、ミッチと手を繋いだまま同じ格好をして、海にたゆたうことにした。
(あ……)
同じようにしてみると、その光景に、心が震えた。
自然は怖いものだ。だがそれ以上に、感動を与えてくれるものでもある。
目の前に広がる美しい自然は、それをリアルに教えてくれた。
繋いでいる手の、その先にあるミッチの体も、自然の一部に思える。
自然と溶け合うというとは、こういうことかもしれない。
これが普段、ミッチの感じている感覚。
ミッチはマウスピースを外すと口から空気の輪っかを作りそっと吹き出した。
空気の輪はキラキラする水面に向かって段々大きくなりながら、浮上していく。
俺はミッチが普段感じている独特な世界に、少しだけ触れたような気がするのだった。