この星見ヶ島は、本土から船で南に一日ほどかけた場所にある、小さな島だ。  都会の喧噪とは無縁のこの島には、全寮制の虹波学園星見ヶ島分校がある。その中でも本土から来た学生は都会で傷ついた心を癒やしに来た子たちだ。卒業をするまでにその傷が癒えてくれてくれることを、島育ちの卒業生として、また町役場に勤める島民として、切に願っている。 「笹井先輩?」  役場の雑用の帰りに立ち寄った海岸で声をかけてくれたのは、純白のビキニを纏った和久井さんだ。  和久井啓子。本土から来た分校の三年生で、地元アイドルグループ、なないろクリップに所属してくれている優しい子だ。他のメンバーからは、お姉さんのように慕われている。  水着は彼女の抜群のプロポーションを際立たせていた。  肌だけでなく髪までしっかり濡れているその姿は破壊力抜群で、男なら誰しもいかがわしい妄想をかき立てられてしまうに違いない。俺も平静を装うために海へと視線を移さざるを得ない。 「だ、誰かと泳いでいたのか?」 「今日は一人よ。広美ちゃんは神社のお手伝いがあるみたいだから」  和久井さんは同じメンバーで俺の幼馴染みでもある巫女のヒロッチと親友なので、よく一緒にいるところを見かける。二人の学年は二つも離れているが、気が合うらしい。  俺も和久井さんと二つ違うが、俺とは挨拶を交わす程度だ。これは単に性別の差なのだろうか。それ以外の理由などあって欲しくない。 「星見ヶ島の海ってカラフルな熱帯魚がたくさんいるのね。少し感動しちゃった」  和久井さんは興奮気味だ。 「島の海に潜ったことなかったっけ?」 「美智留ちゃんみたいに沖で潜ったことはないわ。せいぜい授業で遠泳をするくらい。今も足が浮く程度の場所を少し泳いだだけだし。それでも熱帯魚が見られて嬉しかったけれどね」  普通はそんなものだよな。地元出身の俺も天然野生児のミッチから強引に誘われない限り、潜ることはないし。 「あのお魚たち、なんていう名前だったのかしら。学校のお勉強をいくら頑張っても、身近な魚の名前もわからないなんて情けないわね。授業を受ける意味ってあるのかしら」 「そりゃ、あるだろ」  俺は笑って答えたが、和久井さんは笑っていなかった。  あれ……俺、とんちんかんなこと言ったのかな。  そんなことはないはずだ。勉強は将来生きていくのに役立つものだし。  もしかしたら和久井さんの心の傷に触れてしまったのかもしれないな。 「えっと、どんな魚だったんだ?」  学校の勉強から魚の話題に話を戻すことにした。 「二種類見たんだけど、一つは大きさは手のひらくらいで、平べったくて、全身が黄色と黒の縞模様で、背びれが長いお魚だったわ」  すぐに該当の魚が頭に浮かぶ。説明がうまい。 「もう一つは、同じくらいの大きさで、黄色いお魚で頭は黒く、鼻のところから顎下は白かったわ」 「和久井さんが見たのは、ツノダシと・・・・、もう一匹はフエヤッコダイかな。余りこの辺では見かけないけど、フエヤッコダイだとすると珍しいのを見つけたね」  即答すると、和久井さんは目を開いて驚いた。 「わかるの?」 「ははは、和久井さんの説明が上手いからだね。でもフエヤッコダイはどうかな・・・。石垣の川平湾にはたくさん居るけどね~、潮に乗ってきたのかも」 「あ~、茶化さないでぇ。この程度の説明なら誰でもできるでしょう?」  そんなことはない。  これがミッチなら、『こんくらいの大きさで、きれいな魚だよ!』と、ジェスチャーを交えて教えたにも関わらず相手に全く伝わらない説明しかできないだろうから。  けど和久井さんは、本気でそう思っているらしい。 「そんなに自分を低く見なくてもいいのに。ともかくその二種類はこの辺りで有名な魚だよ。他にも水族館で見られるような魚が常時見られる。クマノミやウミガメも運が良ければ会えるぞ。他には……」 「笹井先輩は星見ヶ島博士ね」  驚くのは俺の番だった。  俺が? ミッチの足元にも及ばないだろうに。  けど、地元の役場に就職するくらい島が好きなので、そう言われると少し嬉しい。  和久井さんから尊敬のまなざしを感じる。  彼女にとって俺は、学校の勉強では教えてくれないことを知っている人に見えているのかもしれない。 「どうして俺が島の海の生物に詳しいんだと思う?」 「えっ? それは……幼い頃から島の年上の子や大人たちに教わってきたからじゃないの?」 「残念ながら不正解だ」 「まさか独学で──」 「でもない。そういうことじゃないんだ」  俺の表情から答えを読み取ろうとする和久井さんだったが、なにも言葉は出てこなかった。 「正解は、星見ヶ島が好きだから」 「あっ……」  和久井さんは弾かれたような表情をした。  別に彼女の答えが全面的に間違っていた訳じゃない。  魚の名前や生態は、確かに年上の子や大人たちに教わったものだからだ。  けれど、島のことが好きじゃなかったら、教わっても頭に入ってこなかった知識だ。  こんなの学校のテストでいい点数を取るためには必要ないものだからな。 「星見ヶ島が好きだから、島の生物に詳しい、か。そんな純粋な気持ちで星見ヶ島博士になった笹井先輩が羨ましいわ」  いや、博士じゃないけどな。  そう言いたかったが和久井さんがどこか寂しそうだったので、なんとなく言えなかった。  どうしてそんな顔をするのか分からないが、和久井さんにこんな顔をさせてはいけない。 「もう一度、海に入らないか?」 「えっ?」 「俺も入りたくなった」  水着に着替えて、和久井さんと海に入る。  役場に戻る時間は遅くなるが、あのまま和久井さんを放っておくよりはマしだろう。  俺たちの足下を、色鮮やかな熱帯魚がすり抜ける。 「さっき見たお魚とは別の種類だわ。あっ、向こうにも……あれはフグ?」 「ミナミハコフグだ。こんな浅瀬で見られるのは珍しいかもしれない」 「へええ、そうなのね」  肩の高さの場所まで来ると、和久井さん海に潜った。俺もそれに続くと、彼女の長い髪や胸が、ゆらゆらと揺れているのが見えた。絶景だ。 「ぷはっ。サンゴのようなものが見えたわ!」 「サンゴのようなものじゃなくて、サンゴだよ。そういえばサンゴって、餌を捕食して生きているから、生物的な分類は動物なんだ。とはいっても植物プランクトンと共生していて、それらの光合成によって栄養分を得ているから、植物のようなものでもあるんだけどな」 「さすが博士ね」 「なあ、和久井さん。さっきの話だけど、自分が楽しいと思うものを見つけて、それを勉強していけばいいんじゃないか?」 「……それができれば苦労しないわ」 「だったら見つけるまで泳ぎ続ければいい。俺も付き合うよ。あ、もちろんアイドルも頑張りながらだと嬉しいけどな」 「ふふっ。わかりました、マネージャー」  和久井さんの顔に笑顔が戻る。  俺も釣られるように笑った。  今日はもう少しだけこの蒼い海で泳いでいよう。  和久井さんが少しでも前向きに勉強できるようになるために。